燕三条の歴史

燕三条の金属工業の歴史は室町時代の初期に河内国から大崎に鋳物師が来住し、大崎が越後の三本坐の1つとして知られてきた。 江戸時代初期に時の代官、大谷清兵衛は江戸から釘鍛冶職人を招き、領民に和釘の製造を指導奨励した。三条鍛冶町には10数軒の鍛冶職があり、近村の副業として盛んとなり、江戸の花といわれた数知れぬ大火によって和釘の需要は高まり、特に燕ではその産業の80%までが、和釘の生産で占められていた。江戸末期近郷合わせて千人とまでいわれ、若狭の小浜とともに東西の和釘の本場となった。 三条地域では和釘の製法を始めて、30年後に会津地方から鋸、鉈等の製法が伝来し江戸中期には鉄製曲尺が製作された。三条金物が隆盛におもむいたのは、この江戸中期以降でこの頃鍛冶町では、鎌、包丁等の刃物類を主体に、燕など近郷の村では釘、鋲類の生産を主とした。
元禄年間に越後の間瀬に銅山が開かれ、燕に精練所ができると、銅等の銅器の生産が燕市で行われ、鎚起という技法が使われ、今でも伝統の技法として残っている。 又煙管、やや遅れて矢立の生産も間瀬の銅の有効利用として開発された。 これらの販売は行商人によって拡大し、全越後はもとより、日本津々浦々にその名を知らしめた。 明治維新により西洋文化の導入により和釘は洋釘に、矢立は万年筆に、煙管は紙煙草の普及により衰退の一途をたどり、大正初期金属洋食器工業が生まれた。大正10年ステンレス銅の登場により、銅器の技法を使用した器物と共に本格化した。